細川家は江戸時代以降も代々肥後熊本藩主をつとめており、こちらは謀反人の家系ではないので系図もしっかり残っています。 細川家に嫁いだガラシャの子孫なので、明智の直系とは言えませんが、光秀の血を受け継いでいることは確かです。 明智光秀は、細川氏の中間である。 との説を私が最初に目にしたのは、明智憲三郎氏の「本能寺の変 431年目の真実 」だった。 それまでは「明智光秀は細川氏の中間という身分だった」という説に出会ったことがなかったが、調べてみると沢山出てくる。. 彼は謀反を起こしたのちに同僚であった細川藤孝(幽斎)を自陣営に引き入れようと画策していました。 もっとも、この提案は細川家から色よい返事を引き出すには至らず、光秀は孤立無援の状態に陥ってしまうことになります。 そこで、明智光秀は朝倉家の家臣であると同時に、足利家の家臣にもなっていた可能性があります。 もっとも、ルイス・フロイスの『日本史』では、明智光秀は足利家の家臣ではなく、細川輔藤孝の家臣だったという記述も見受けられます。 細川家伝承の「光秀謀反」 面白い話です! ご予約・お問い合わせTEL:0284-43-2700診療時間:8:30~12:00 / 15:30~19:30… なぜ光秀は信長を襲ったのか? 同じく義昭の家臣である細川藤孝も、元亀4年(1573年)にはこの将軍を見限っておりました。 そして元亀4年(1573年)2月、ついに義昭が織田家に対して挙兵します。 この戦いで明智光秀は、完全に義昭と決別し、織田家臣として参陣。 昔のよしみなのか。